今回は、放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」の登場人物である紫式部が活躍した平安時代、摂政関白として名をはせた藤原氏の所領「鹿田庄」についてご紹介します。
鹿田庄
岡山市街地は、宇喜多氏、小早川氏、池田氏ら大名が城下町を整備する以前は、のどかな田園風景が広がる農村であった、と思う人が多いかもしれません。ところが、鹿田小学校西側の発掘調査で平安時代の町割りが出土し、農村ではなく都市だったことが判明しました。
城下町ができる以前には、旭川西岸付近、現在の北区大供本町から大供、清輝橋、岡山大学周辺の鹿田にかけて「鹿田庄」という荘園がありました。荘園とは、奈良時代から豊臣秀吉の太閤検地(たいこうけんち)まで存続した、貴族や有力寺社の私有地のことですが、その中でも鹿田庄は、平安時代に最高権力者であった藤原氏の当主が相続する有力荘園である「殿下渡領(でんかわたりりょう)」の一つだったのです。瀬戸内海の中間地点であり、水運の拠点でもあったことが、殿下渡領の設置された理由だったのでしょう。
発掘された鹿田庄は斜めの町割りとなっており、東西南北の方向性で整備された城下町とは、異なっています。鹿田庄は、江戸時代に池田氏が城下町を整備したことで埋もれたと考えられており、古代から続いた伝統的な世界は終焉を迎えました。
鹿田の起源
地名の起源は住んでいた人、建っていた建物の種類、事件などさまざまですが、最も一般的なのが地形です。鹿田庄に関する古文書のなかに、「カタ」と読み仮名を入れたものがあります。近世以前は海浜部であったことから、「干潟(ヒガタ)」がなまって「カタ(鹿田)」となり、漢字の読み方から「しかた」に変わったと考えられます。
- キジ
鹿田庄が終焉を迎えたあとも集落は江戸時代に入ってもしばらく続いて、都で特注された「猿形水滴」といった武士好みの出土品も見られたんだ。
- サル
交易に関わった人びとの姿が浮かび上がるのぉ。
- イヌ
活気ある土地だったんだワン!