信じられないかもしれませんが、岡山の大部分はかつて海でした。しかし安土桃山時代から様々な偉人や地元住民の干拓作業の努力が繋がって、今の岡山の大地が出来上がったのです。
(干拓とは、元々川や海があったところを干上がらせることで陸地にすること。)
実は岡山は、日本一の”干拓王国”。児島湾干拓は、秋田県の八郎潟干拓地、九州の有明海沿岸と共に「日本三大干拓」のひとつに数えられるほど大規模な干拓が行われており、児島湾は全国初めての人工湖なのです。なぜ、岡山でここまで大規模な干拓が行われたのか?そこには大きな夢を抱いた人たちのドラマがありました。
400年前、岡山県の大半は海だった!?
- キジ
現在の岡山平野には約2万5千ヘクタールの田んぼや畑があるんだけど、そのうち約2万ヘクタールが「吉備の穴海(あなうみ)」と呼ばれる海だったんだ!
- サル
2万ヘクタール!!!想像もできん広さじゃ・・・。
大規模な干拓は安土桃山時代から続けられ、江戸時代には全国で1,804件の新田開発が行われたといいます。そのうち現在の岡山県にあたる地域では、266件もの干拓作業が行われました。なんとこの数は、全国第1位なのです!
- キジ
岡山平野の約8割の田んぼや畑が干拓によって生み出されたんだ!
- イヌ
ほとんどが海だったなんてびっくりだワン!!!
こういった大規模な干拓は、けっして一代でできるようなものではありません。数々の偉人によって時代を超えて大地のバトンを繋いだ、”干拓リレー”のようにできていったのです。
- キジ
これから”干拓リレー”と題して、干拓の歴史を繋いできた特に重要な時代のリレー選手を紹介するよ!
安土桃山時代から昭和へ 干拓リレー 列伝
第一走者
イケメン武将、宇喜多秀家(うきたひでいえ)による宇喜多干拓(安土桃山時代)
第二走者
土木建築のエキスパート、津田永忠(つだながただ)による沖新田干拓(江戸時代)
アンカー
大阪財界の重鎮、藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)による児島湾干拓(明治〜昭和時代)
現在に至るまで、大小さまざまな干拓が行われてきました。そのなかでも、岡山の干拓史を語る上で、無くてはならない3名です。第一走者から順に見ていきましょう!
- サル
どんな人間ドラマがあったんか楽しみじゃのぉ〜!!!
【安土桃山時代編】イケメンは海を大地に変える。
〜第一走者、宇喜多秀家による宇喜多干拓〜
- イヌ
あれ?宇喜多秀家といえば、岡山城下町を築いたイケメン武将だワン!
- サル
くぅう〜〜〜!イケメンなだけじゃなく、こんな仕事もしとったんか!たしか、前のストーリーでは川の流れも変えておったような・・・!
安土桃山時代に、岡山平野の大規模な干拓リレーのさきがけとなったのは、岡山の戦国武将・宇喜多秀家。現在の早島町から倉敷市二日市付近、さらに倉敷中心部の鶴形山北側あたりから酒津付近にかけて干拓しました。
- サル
「早島」は地名に島がついとるだけに昔は島じゃったんじゃな!
- イヌ
機械も無い時代にどうやって海を大地にしたんだワン・・・?
- キジ
宇喜多秀家は、「備中高松城水攻め」の堤防造りをヒントに、干拓をしたんだ!
「備中高松城の水攻め」とは、中国地方で難攻不落と言われた備中高松城の地の利を生かした「水攻め」という奇策で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が攻略した戦い。宇喜多秀家は、高松城の水攻めの指揮官として活躍した家臣に命じ、堤防を築かせて干拓を実現したのです。
- サル
先の戦の技術をさっそく活かすとは、さすが切れ者の秀家じゃ!
このときに築かれた堤防は、通称「宇喜多堤(うきたづつみ)」と呼ばれています。現在はほとんど堤防は残されていないので、正確な堤防のルートはわかりません。
- キジ
早島は「干拓のまち」とも呼ばれていて、当時の宇喜多堤の名残とされるものが残ってるよ!
- サル
岡山大規模干拓地のはじまりの場所じゃのぉ〜。
- イヌ
さあ、次の干拓リレー第二走者はどんな人だワン?
【江戸時代編】人の心を掴む戦略的エキスパート
〜第二走者、津田永忠による沖新田干拓〜
江戸時代前期の岡山藩では、農地が不足していました。食糧難がたびたび起こり、また当時はお米にお金と同等の価値があったため、 財政難も引き起こしていました。そんな状況を解消するため、当時の岡山藩主・池田綱政の命を受け、“土木建築のエキスパート”津田永忠による、干拓による新田開発が始まったのです。
- サル
津田永忠といえば、岡山後楽園や閑谷学校の建設工事、百間川の工事をしたすごい人じゃのぉ! だから”土木建築のエキスパート”なんじゃな!
永忠は、壮大な構想を描いていました。それは、当時ではあり得ない東西5キロメートル、南北4キロメートルにもなる前代未聞の広さの干拓をする「沖新田開拓事業」です。沖新田は、現在の岡山市東区南西部から中区南部にあたります。
- キジ
ただ、これだけ前代未聞の干拓だったから、旧来の田んぼを持った農民からは「自分の田が水不足になる可能性がある」と反対され、漁民からは「漁場が無くなる」と猛反発を受けてしまったんだ・・・。
しかし永忠は諦めず、干拓による影響を受けづらい倉田新田(約360ヘクタール)・幸島新田(約600ヘクタール)から少しずつ干拓を成功させることで信頼を獲得していきます。ちなみに倉田新田は現在の岡山市中区倉田・倉富・倉益、幸島新田は東区山南地区です。
- キジ
さらには、干潟周辺で漁をしていた漁民には、万が一漁獲量が減少するようであれば、代わりに農地を与える約束をすることで、地域の人に納得してもらったんだ!
そして、ついに前代未聞の1,900ヘクタールの沖新田を完成させたのです。しかも12キロメートルの堤防を、わずか6ヶ月で完成させる驚異的な速さでした。
- イヌ
どうやってそんなに早く完成できたんだワン!?
- キジ
一説によると、永忠は作業人員をグループに分けて競争させることで、工事を迅速におこなわせたといわれているんだ。
そして、沖新田全体の産土神として社を建立するため、沖田神社が創建されました。永忠が干拓した土地を全部あわせると、2,800ヘクタール超え。現在の岡山市の繁栄は、江戸時代に永忠が生み出した土地のおかげかもしれません。
- キジ
また沖新田には、「おきた姫伝説」というとある逸話も残っているんだ。なんと、若い女性がいけにえとなる人柱があったそうな・・・。
気になる人は、沖田神社の裏手にある「沖田姫神社」という小さな祠を訪ねてみてください。きっと、心揺さぶられる歴史を知れるはずです。
干拓した後の農民の暮らしはどうだったの?実は苦労も・・・
- サル
ちなみに、干拓後の暮らしってどうだったんかのぉ?
- キジ
実は、沖新田はすごく大変だったみたいなんだ・・・。
広大な沖新田ですが、入植した農民たちは苦労が絶えませんでした。とくに農業においては堀田(ほりた)の作業と飲み水の確保には苦労したそうです。
沖新田は海面より土地が低いため、水田内の土を掘り起こして高くしました。掘った部分は溝のようになり、上から見ると櫛(くし)状をした田になります。これが堀田です。
- キジ
堀田は毎年春先に「堀田かえ」という泥を上げる作業をするんだけど、1日5回ご飯を食べないとやっていけないほど大変な作業だったそうな・・・。
また、沖新田の水は塩水だったため、飲み水として利用できず、沖新田以外の地域の川から用水路を通して水を得る必要がありました。さらには、用水路を通ってきた水は汚れてしまうため、濾過をする必要もあったのです。
- キジ
堀田も水の濾過も昭和30年代まで続いたそうな。大変すぎるよね・・・。
- サル
沖新田の農民の方々には頭が下がるのぉ・・・。
そんな大変な暮らしの中にも、こんなお話もあります。当時の子どもたちの楽しみはフナを捕まえることでした。そんな背景から郷土料理の「鮒めし」が生まれています。
- キジ
「もっと深掘り豆知識」の中で、鮒めしレシピを紹介してるからぜひ見てね!
【明治〜昭和編】日本三代干拓のひとつを拓く世紀の大事業!
〜アンカー、藤田伝三郎による児島湾大干拓〜
- イヌ
干拓リレー、アンカーはどんな人なんだワン・・・!?
- キジ
最後を飾ってくれるのは大阪財界の重鎮、藤田伝三郎だよ。「東の渋沢栄一、西の藤田伝三郎」と呼ばれるほど、大阪で大活躍した実業家なんだ!
- サル
新・一万円札の顔・渋沢栄一と肩を並べるとはすごいのぉ!!!
明治時代に入り、当時の岡山県庁が解決すべき問題のひとつとして、大政奉還によって職を失った元・武士たちの生活を立て直す必要がありました。そこで立ち上がったのがひとりの岡山県庁職員・生本伝九郎(いくもと でんくろう)です。
- キジ
生本は、元・武士のために児島湾を干拓して、農業で生計を立てられるように考えたんだ!
明治10年(1877年)、岡山県職員・生本は知事に児島湾干拓を進言し、政府に協力を要請。政府から、オランダ出身の土木技師・ムルデル(ムルドル)が派遣され、干拓工事は一気に進んでいくように思われましたが・・・。
- キジ
調査の結果、干拓工事には莫大な資金が必要なことが判明したんだ。なんと、政府が「お金を出せない」と言われるほどの規模だったんだよ。
- サル
政府がお金を出せんかったら、どこも無理じゃわい!!!
岡山県職員・生本は諦めず、多くの資産家や実業家に協力を依頼しましたが、協力者は現れません。諦めかけた時、最後の頼みの綱として頼ったのが、西の実業家・藤田伝三郎でした。
- イヌ
藤田伝三郎さん、岡山の元・武士を助けてだワン〜!!!
政府もあらゆる資本家も協力できなかったほど、どう考えても採算が取れるあてもないスケール。まさに「泥の中に金を捨てる」ような事業でした。藤田伝三郎のもとを訪れた岡山県職員・生本伝九郎は、児島湾干拓の必要性を熱弁します。
- サル
自分の利益を考えると、難しい事業じゃからなあ・・・。
- キジ
でも、生本の熱弁に心打たれた伝三郎は、政府も協力できなかった大事業を引き受け、巨額の私財を投じる事を決めたんだ!「国利民福」を掲げ、国民のため、社会のために。
激しい反対運動、裁判沙汰、干拓工事は難航を極める。
岡山県民のため、そして国民のため、藤田伝三郎は世紀の大事業に資金を投じる覚悟をしました。しかし伝三郎を待ち受けていたのは、児島湾での漁業を生業とする児島湾岸の漁師たちの激しい抵抗だったのです。
- キジ
児島湾の干拓は、漁師たちにとっては生活の糧を奪われるようなもの。まさに死活問題だったんだ。
反対運動は想像以上に激しく、裁判にまで発展しました。伝三郎は漁民らに生活保証金を支払うなどし、約15年後の明治32年(1899年)にようやく干拓工事の起工式ができるようになったのです。
- サル
開始するのに15年!?いったい完成まで何年かかるんじゃ・・・。
底なし沼のような不安定な地盤。先の見えない干拓・・・
児島湾は8つの区域に分けて、それぞれ順に干拓していくことになりました。工事は伝三郎の会社・藤田組(現在のDOWAホールディングスの前身)がおもにおこないましたが、実際に工事を始めると計画どおりに進まず難航したのです。
- キジ
児島湾の底は長年にわたり土砂が溜まっていたから、底なし沼のような不安定な地盤だったんだ。何度堤防を築いても崩れ、苦難の連続だったんだよ・・・。
伝三郎はどんな困難があっても、信念を持って取り組みます。そしてその信念は、現場作業をおこなう藤田組の人々も同じでした。数々の困難にぶち当たるたび、創意工夫をして乗り越えていきます。
「青海変じて美田となす」伝三郎が描いた夢の実現へ。
誰もが放り出してもおかしくない状況。それでも、諦めずに挑戦した伝三郎や藤田組の人々のおかげで、苦難が続いた干拓工事は、遂に明治38年(1905年)に1区が完成。続いて2区が明治45年(1912年)に完成します。
しかし明治45年3月30日。伝三郎は児島湾干拓の完成を見ることなく他界しました。
- イヌ
最後まで一緒に見届けたかったワン・・・!!!
伝三郎の意志を継いだのは、息子である藤田財閥2代目当主・藤田平太郎(ふじた へいたろう)。父の描いた夢の実現へ向け、昭和25年(1950年)に3区と5区、昭和30年(1955年)に6区、昭和38年(1963年)に7区が完成し、すべての干拓が完了したのです。
- キジ
明治32年から着工した児島湾干拓事業は、昭和38年についに完成!なんと、約65年の歳月を経て夢は現実になったんだ!!!
「青海変じて美田となす」という伝三郎が描いた夢の美田が、たくさんの人々の努力を持って実現され、海は広大な大地となり、豊かな恵みをもたらしてくれました。
- キジ
干拓前の児島湾は約7000ヘクタールの面積。伝三郎は、そのうち約5500ヘクタールを干拓して農地にかえたんだ!
- イヌ
伝三郎さんも、天国で喜んでくれてたら嬉しいワン・・・!
- サル
わしの涙腺も干拓せねばえらいことになっとるわ・・・。
ちなみに、現在の岡山市にある「藤田地区」は、藤田伝三郎・藤田組に由来しており、藤田伝三郎にちなんだ「ふじた傳三郎太鼓ほうじ茶どら焼き」も販売されています。
- キジ
なんと、「どら焼きの自動販売機」があるから、ぜひ行ってみてね!
夢と希望がつまった大地から採れる農産品たち
岡山の大地は400年以上の時代を超えて、さまざまな人々の努力による干拓リレーで生まれました。そして、干拓のおかげでたくさんの人々の暮らしが豊かになり、農業が活発に行われています。
- キジ
児島湾干拓地すぐそばの「サウスヴィレッジ」では、地元で採れた農産品を販売していて、もちろん児島湾干拓地で採れた農産品もたくさん買えるんだ!
児島湾干拓地で栽培される、おもな作物には以下のようなものがあります。
- 米(うるち米、酒米)
- ビール麦
- タマネギ
- レタス
- レンコン
- 千両ナス
- キジ
特に、揚げたてのレンコンコロッケが人気で、クリーミーなマッシュポテトとシャキシャキレンコンがたまらないんだ!
また、展望台から眺める広大な水田や麦畑は、青々と茂った時季や黄色く実った時季に見ると、とても美しいです。
- キジ
サウスヴィレッジの園内もすごく素敵だから、ぜひゆっくり過ごしてみてね!
「日本三代干拓地」のひとつ、児島湾干拓地に行ってみよう
日本一の干拓王国岡山。その大地ができるまでのストーリーに触れてみると、きっと地域への愛が深まるはず。夢と希望がつまった大地には、素敵な観光地がたくさんあります。ぜひ、歴史を感じながら広大な大地を楽しんでみてください。
- キジ
「400年前は海だった!」って思うと、不思議な感じがするかもね!
- サル
わしは酒を飲みながら四つ手網でズボラ漁を楽しむわい!
- イヌ
ボクはレンコンコロッケが早く食べたいワン!!!
児島湾干拓では、造成地を区画に分け、一区〜八区の番号を割り振った(四区・八区は干拓工事が実行されず)。
干拓工事完了後、それぞれ新しい地名が名付けられ住所表記とされたが、七区は区画番号がそのまま住所表記として使用された。