吉備国の強大な力を物語るのは、古墳だけではないさまざまな古代遺産。約1800年前に築かれた日本最大級のお墓、”埴輪のルーツ”となった土器など、さまざまな古代吉備国の謎が隠されています。
古代の日本を記した文献は、中国の歴史書のわずかな記述しかなく、謎が多いとされています。しかし、さまざまな遺跡や出土品を見ることで、吉備国の謎を紐解くカギが見えてくるのです。
吉備国に”超エラい人”が存在した跡が・・・
吉備国の強大な力を最初に物語るのは、約1800年前に築かれた「楯築遺跡(たてつきいせき)」。古墳と似ていますが「弥生墳丘墓(やよい ふんきゅうぼ)」という古墳のルーツとなったお墓の一種で、弥生時代後期では日本最大級のお墓です。
楯築遺跡の形は、「双方中円形(そうほう ちゅうえんけい)」と呼ばれるめずらしいデザイン。中央部は大きな丸い形で、北東と南西に向けて2か所、細長い長方形が突き出しています。残念ながら住宅団地造成工事により、左右の2つの突出部は破壊されてしまいましたが、中央の円形部分は現在も残っています。
楯築遺跡は2つの突出部があったときは突出部の端から端まで約83メートルもありました。中央の円形部分は、直径約49メートル。なんと楯築遺跡は、弥生時代後期では日本最大級の大きさです。
楯築遺跡の円形部の頂上には、巨大な盾のような岩が立てられ、並んでいます。ストーンサークル(列石)と呼ばれ、現在立っているのは全部で5個。最大のものは、高さ約3メートルにおよび、迫力満点!中央にはかつて神社があり、「施帯文石(せんたいもんせき)」というまるで毛糸の玉のような紋様がほどこされた石が祀られていました。
- キジ
楯築遺跡のような巨大で特異な弥生墳丘墓は一代限りで、前後の時代にはつくられていないんだ。このお墓に眠っている方が、吉備国を治めた大首長だと推測されているんだよ。
- サル
この大首長が、吉備を一大勢力へとまとめ上げたかもしれんな!
ヤマト王権をおびやかす?ナンバー2の座へ
古墳時代になると畿内(きない=現在の奈良県・大阪府・京都府南部・兵庫県南東部)にヤマト王権が成立しました。ヤマト王権は、各地の有力な勢力が連合して生まれたとされており、吉備国はヤマト王権の創立メンバーとして参画していたのです。
- サル
勢力が強いもの同士、どんな関係性だったんじゃろか・・・。
- キジ
実は、吉備国とヤマト王権の関係性を示すわかりやすい例が一つあるよ!
古墳時代最初期の古墳で有名なのが、3世紀半ばに築造された奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはか こふん)。そして岡山市東区浦間には、その箸墓古墳とほぼ同じ時期に築造された浦間茶臼山古墳(うらま ちゃうすやま こふん)があります。
- キジ
見てわかるとおり、浦間茶臼山古墳は、箸墓古墳とほぼ同じ形をしているんだ! さらに大きさは箸墓古墳のほぼ2分の1!それでも、同じ時期の古墳では畿内以外で最大クラスなんだ!
これは吉備国がヤマト王権の中で、大和に次ぐナンバー2くらいの重要なポジションだったことを意味します。そして浦間茶臼山古墳に眠っているのは、ヤマト王権の設立メンバーとして関わった吉備国の首長だと考えられるのです。
- サル
ヤマト王権内で、かなり有力なポジションじゃな!
古墳時代前期には、その後も吉備国で大型古墳がつくられました。おもに以下のような古墳があります。
■浦間茶臼山古墳(うらまちゃうすやま-)
■中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやま-)
■神宮寺山古墳(じんぐうじやま-)
■小盛山古墳(こもりやま-)
■金蔵山古墳(かなぐらやま-)
■湊茶臼山古墳(みなとちゃうすやま-)
なかでも注目なのは金蔵山古墳。なんと、4世紀時点において中国地方以西で最大規模の前方後円墳です!また岡山県下では4番目の大きさになります。このころの古墳は、おおむね畿内の古墳の60%くらいの大きさで、吉備国の力がさらに増していたのかもしれません。
- キジ
中山茶臼山古墳といえば、桃太郞のモデルともいわれる吉備津彦命(きびつひこのみこと)のお墓!吉備津彦命と温羅の戦いは、実は吉備国とヤマト王権の対立を反映した可能性があるとも言われているんだ。
岡山に“日本最大級”の古墳!?
世界遺産になっている巨大前方後円墳と同じ5世紀前半、なんと吉備国にもほぼ同クラスの巨大前方後円墳が築造されています。それが岡山市北区新庄下にある「造山古墳(つくりやま こふん)」です。造山古墳は、全国第4位の大きさ。
- サル
3位の古墳と比べても長さは5m短いだけ! 高さは少し高いからほぼ変わらんのぅ。これは世界遺産クラスじゃ!
- キジ
造山古墳は、上位3古墳で一番古い「上石津ミサンザイ古墳」よりわずかに築造時期が早かった可能性があるんだ。もしそうであれば、築造されたときは、短期間だけど日本最大規模の古墳だったかもしれない!
- イヌ
でも、なんで吉備国にこんなに大きな前方後円墳が生まれたんだワン・・・?
吉備国に巨大古墳が生まれたのは、5世紀になり吉備国の体制が変わって強大な力をもつ大首長が誕生した可能性が考えられます。造山古墳と同じ時代、吉備国内のほかの地域では古墳がほとんどつくられていません。それほど造山古墳に埋葬されている大首長の権力が強大だったのではないでしょうか。
このころの吉備国は、朝鮮半島と独自の通商ルートをもっていたといわれています。そして鉄器を入手したり、鉄生産の技術者を招いたり、須恵器という焼き物の技術を導入したりして勢力を増したのです。
- キジ
造山古墳が畿内の巨大古墳とほぼ同じサイズなのは、吉備国がヤマト王権と並ぶほどの力をもったことを意味しているんだ!
日本最大級なのに”唯一立ち入り可能”な「造山古墳」
岡山県で最大の古墳、造山古墳。大仙古墳・誉田山古墳・上石津ミサンザイ古墳などの上位規模の古墳はほとんどが、宮内庁によって陵墓(皇族の墓)に指定・管理されているため立ち入ることができません。しかし造山古墳は陵墓指定されていないので、古墳に立ち入ることができるんです。
- キジ
造山古墳は、立ち入り可能な古墳の中で日本一の大きさなんだ!
- イヌ
世界遺産クラスの古墳に入れるなんて、すごいワン!!!
前方部には、荒神社が建てられており、拝殿のそばには石棺(せっかん=石のひつぎ)があります。石棺は熊本県の阿蘇凝灰岩製。内側は赤い顔料で塗られ、側面には紋様も施されているのが特徴です。またフタは破壊されていますが、荒神社のかたわらには、石棺のフタの一部分が置かれています。なおこの石棺は、別の場所から移されたという説もあります。
後円部は戦国時代の備中高松城の戦いのときに、毛利方が陣を置いたといわれていて、土塁の痕跡が確認できます。また造山古墳の前方部と後円部の境目付近の左右の「くびれ」部分には、造出(つくりだし)と呼ばれる祭祀をおこなった場所がありました。現在は、2つのうち1つの造出が残っています。
また築造時大仙古墳などの巨大古墳と同じように、古墳のまわりに周壕(しゅうごう)という堀が張り巡らされていました。
- キジ
現在は周壕はなくなったけど、周辺を歩くと周壕の名残を感じられるよ!
さらには造山古墳には陪塚(ばいちょう/ばいづか)と呼ばれる、大型古墳の近くに付属した小型古墳が6基あるのです。一部は破壊されていますが、現存しているものもあります。なかでも全長約75メートルのホタテ貝形の千足古墳(せんぞく こふん)は、当時の姿に近い形に復元工事が行われており、史跡公園として整備される予定です。
何があった?古墳時代後期に吉備国は衰退
造山古墳のあと、5世紀半ばになると現在の総社市三須にある「作山古墳(つくりやま こふん)」がつくられます。作山古墳は全国で9番目の大きさ、岡山県で2番目の大きさです。
5世紀後半には、赤磐市に岡山県で3番目に大きい「両宮山古墳(りょうぐうざん こふん)」、総社市山手に「宿寺山古墳(しゅく てらやま こふん)」、岡山市と総社市の境に「小造山古墳(こつくりやま こふん)」などがつくられました。
- キジ
5世紀前半の造山古墳を頂点に、5世紀半ばから後半にかけて少しずつ古墳のサイズが小さくなっていったんだ。これは吉備国の勢力が少しずつ弱くなっていったと推測されるよ。
そして両宮山古墳などの古墳を最後に、それまで古墳が多くつくられていた吉備国の中枢部(岡山市の足守川流域から総社市の高梁川東岸までのエリア)には、大きな古墳が見られなくなりました。
- キジ
吉備国全体をまとめていた大首長の力が弱まったことで、各地域の首長が独自に力を持ち始めたんだろうね。
のちの時代に記された『日本書紀』には、吉備国の豪族が3度にわたり反乱をおこしたが、いずれも鎮圧されたという伝承が書かれています。これらの反乱は、ちょうど5世紀後半の雄略天皇の時代に起こりました。5世紀後半といえば、ちょうど吉備国で大きな古墳が見られなくなるころです。吉備国の勢力が弱まる何かが起こったのかもしません。
- サル
最初は吉備国はたのもしく強力なパートナーじゃったが、強大な力をつけすぎてしまったんじゃな・・・。
“全国第4位の大きさを誇る石室”や多数の出土品
5世紀末以降の古墳時代後期になると、それまで古墳が少なかった現在の瀬戸内市や笠岡市、高梁川の西岸地域、さらに津山市や福山市などに古墳が多くなります。その後、規模は縮小したものの6世紀後半に総社市にふたたび「こうもり塚古墳」や「江崎古墳」などがつくられています。
- キジ
こうもり塚古墳は、全国的に有名な造山古墳・作山古墳と比べると小さいけど、全長約100mの前方後円墳なので、かなり大きいよ!しかも、吉備国で最も大きい石室があるんだ。
こうもり塚古墳の円部には、棺を納めた横穴式石室があり、柵越しに見ることができます。横穴式石室は全長19.4メートルの巨大な石を組み合わせて造られており、岡山県下三大巨石墳の一つ。横穴式石室の中では全国第4位の大きさを誇ります。
石室からは、井原市産出の貝殻石灰岩で造られた家形石棺や、土を焼いて作った陶棺、木の棺が安置されていました。他にも、須恵器や土師器などの土器のほか、大刀や馬具をはじめとした鉄器などが多数出土しています。
- キジ
出土品を見ると、ヤマト王権との関係の証として限られた有力者だけが所有できた「環頭太刀(かんとうのたち)」もあったそうだよ。強大な力が無くなったあとは、良い関係性になったのかもね。
- サル
なるほど!古墳の出土品からも、当時の関係性がわかるんじゃな!
埴輪のルーツは岡山に?出土品にも謎を紐解くヒントが!
- サル
他にも当時のようすがわかる出土品はあるんかのぉ?
- キジ
古墳とセットで語られるのが埴輪(はにわ)だね。一般的に埴輪といえば人型だけど、埴輪を時系列に見ていくと面白いことがわかるよ!
埴輪は、弥生時代に吉備国の弥生墳丘墓で使用された、土器の台(特殊器台)と壺(特殊壺)のセットが起源とされています。
特殊器台と特殊壺は、墳墓祭祀(ふんぼ さいし)という儀式で使われた土器でした。墳墓祭祀とは亡くなった首長を祀り、新しい首長が位を継承する、墳墓でおこなわれた儀式です。特殊器台と特殊壺のほとんどは吉備地方で出土しており、特殊器台・特殊壺は吉備国独特の文化だったとみられています。
その後、ヤマト王権で前方後円墳が形成されていくなかで特殊器台・特殊壺が取り入れられ、円筒埴輪(えんとう はにわ)という埴輪へと発展していきました。
3世紀ごろになると、岡山(吉備)では浦間茶臼山古墳などを含む6基の古墳から、特殊器台の名残を残す円筒埴輪が出土しています。
- キジ
4世紀頃になると形象埴輪(けいしょうはにわ)と呼ばれる埴輪が登場し、人や動物・家・道具などをかたどるようになったんだ。一般的にイメージする「埴輪」のルーツが生まれたんだよ。
このように、全国で出土している埴輪の歴史を紐解いて見ると、吉備国にルーツがあったことが見えてくるのです。
- キジ
吉備国の力が強かったからこそ、ヤマト王権でも吉備国の文化が取り入れられ、全国に広がっていったんだ!
今も残る遺産から、吉備国の文化を感じよう
弥生時代や古墳時代は文献などが少ないですが、古墳や出土品などの遺産を見ると、その当時の状況がわかり、当時の吉備国の強大な力が想像できます。
岡山市周辺には、古墳や遺跡がたくさんあり、出土品もたくさん!世界遺産クラスの古墳に立ち入れる貴重な体験はここでしかできません。
- キジ
岡山に残る吉備国の遺跡や古墳、出土品を訪れてみて、ぜひ古代吉備国の強大な力を感じてみてね!
- イヌ
まだまだ謎がいっぱい見つかるかもしれないワン!
- サル
考古学者になったつもりで、謎解きするんじゃ!
古代で真金とは鉄のことを意味した。「真金吹く」とは「鉄を製産する」という意味になる。古代では「鉄といえば吉備」というほど、吉備が鉄の産地だったことが知られていた証です。