岡山といえば、岡山城。宇喜多直家、宇喜多秀家、小早川秀秋、池田光政、池田綱政と、岡山ではよく知られている人も城主だった城です。特に天守(天守閣)はイケメン武将と名高い宇喜多秀家(うきた ひでいえ)が築いています。
今でこそ、岡山城周辺は岡山の中心部ですが、元々は田舎。
宇喜多秀家の父・直家(なおいえ)の代から宇喜多家は城下町を着々と形成し、田舎から当時では最先端の城下町を築きあげていきました。
秀家の父・直家は「岡山のまちの生みの親」であり、子・秀家は「岡山のまちの基礎をつくった人」なのです。
そんな宇喜多秀家と父・直家が岡山城下町を築いていく歴史には、岡山のまちのルーツが隠されており、「もしかしたら岡山県は別の県名になっていたかもしれない」などの面白い裏話も隠れています。
田舎の“3つの丘”から始まった「岡山城下町」
岡山城が築かれる前は、どんな場所だったのでしょうか。
岡山城や城下町があるところには「岡山」「石山」「天神山」という3つの丘が連なっていました。
「岡山」は現在の岡山城本丸のある烏城公園、「石山」は石山公園周辺、「天神山」は天神山文化プラザや岡山県立美術館の周辺にあたります。
- キジ
「石山公園」や「石山みち」、「天神町」という地名などは、石山や天神山の名残なんだよ。岡山県立図書館あたりから天神町までを実際に歩いてみると、起伏があって、昔は3つの丘だったことがよくわかるんだ。
現在の岡山城の本丸(城のメインとなる部分)は、「岡山」に築かれています。しかし実は、もともと本丸は「石山」に築かれていたのです。ただし記録が残っていないため、誰がいつごろ築いたのかは正確にはわかりません。少なくとも南北朝時代の1300年代中頃には石山に城が築かれていたという記録があります。そして天正元年(1573年)ごろに、宇喜多秀家の父・宇喜多直家(うきた なおいえ)が城主になったのです。 しかし、いつごろから岡山城と呼ばれていたのかはわかりません。残っている文献では、宇喜多直家の時代にはすでに「岡山」の名前が使われていました。
- キジ
宇喜多秀家は、お父さんのいた本丸を石山のすぐそばの岡山に変更し、お父さんのいた城を取り込む形にしたんだよ。
- サル
城をゼロから建てたんじゃなく、お父さんの家の横に新しい母屋を建て、前の母屋を”離れ”にする感じで築かれたんじゃの〜。
- キジ
とはいえ、改築や改修ではなくて新築になるよ。秀家は、岡山城を「近世城郭」という新しい城にしたんだ! 近世城郭とは、多くが天守や高石垣を持ち、大名の力をアピールする城だよ。
ちなみに石山に本丸があった時代「石山の城」などと呼ぶことも。でもこの名前は、岡山に本丸を築いた時代と区別するために便宜的に呼んでいるもの。だから「石山城」という名前の城はなかったんだよ。
父・直家公の”戦略的”な城下町づくり。しかし、事件が…
- サル
石山に本丸があった時代には、城下町はなかったんかのぉ〜?
父・直家は石山に本丸があった時代から、城下町の形成に着手しました。城の近くにあった岡山大明神(現 岡山神社)・岡山寺・蓮昌寺・今村宮などを移転させます。さらに西国街道(山陽道)の道筋を、旭川を渡り、城の南を通るルート(現在の県庁通りあたり)に変更。人の流れが生まれる環境を整えていったのです。 ちなみに、岡山大明神は、もともと「岡山」にあり、父・直家は現在の岡山神社が建つ土地を寄進(寄付)して、城の守護神としました。
- キジ
さらに、父・直家は城の西側に、”西日本一の商都”として名高い備前福岡(現 瀬戸内市長船町福岡)や、西大寺(現 岡山市東区西大寺地区)から多くの商人を城下町に移住させることで、岡山城下町の経済の基盤を形成していったんだよ。これが現在の岡山のまちのルーツなんだ!
- サル
商売が活発になると、人も集まる!経済が潤えば、軍事力も強固に!父・直家は戦略的で賢い人だったんじゃの〜。
- イヌ
街が賑やかになっていくのは、嬉しいワン・・・!
- キジ
戦国大名は戦のイメージがあるかもしれないけど、本業はあくまで政治!
しかし、城下町整備を進めていた父・直家ですが、天正10年(1582年)に病死(諸説あり)。 子の宇喜多秀家が跡を継ぐことになります。このとき秀家は、まだ10歳に満たない年齢でした。
- イヌ
まだ小学生くらいの子が跡を継ぐなんて、心配だワン・・・。
- キジ
まだ幼い宇喜多秀家だったけど、イケメンかつ持ち前の愛され力を発揮し、豊臣秀吉の養子となってスピード出世。26歳という若さで「五大老」になったんだ。ちなみに秀家の「秀」の字は、豊臣秀吉が自分の名前から与えたものなんだよ。
ここまでやるか!?川の流れを変えてしまう宇喜多秀家公
- サル
父・直家から跡を継いだ後、宇喜多秀家はどうやって城下町を発展させたんか気になるわ〜
宇喜多秀家は、約57万石の大名にふさわしい城を築くため、石山にあった本丸を岡山に移し、岡山城のシンボルとなる天守を慶長2年(1597年)に完成させます。
- キジ
宇喜多秀家の功績はここからがすごいんだ!岡山城の防御力を強化するために、直家時代の城を取り込む形(石山にあった旧本丸を二之丸の内郭に)で城を拡張して巨大な城郭へと変貌。さらには、旭川の流れを岡山城の東側を取り囲むように大きく変えて防御力を強化していったんだ。
当時の旭川は、平野部でいくつかの流れに分かれていました。秀家はその川筋の中から岡山の東側を取り囲むように流れていた川筋を本流にし、ほかの川筋をせき止めて川の流れを一本化したのです。このとき本流となったものが、現在も残る旭川の流路にあたります。
- イヌ
川の流れまで変えちゃうなんて、すごい行動力だワン・・・!
秀家は、天守の完成と旭川の流路変更だけでなく、城の南(現在の県庁通りあたり)を通っていた西国街道(山陽道)を城下町の中を通るルートへ変更しました。
- キジ
父・直家が変更したルートを、再変更したんだ!
そして宇喜多秀家も、備前国内から商人を呼び、城下町に移住させます。こうして、城下町の中を通る西国街道を中心とした商業地が誕生しました。この街こそが、現在の表町商店街の原型。表町商店街は安土桃山時代から続く、歴史ある商人街なのです。
- サル
川も道も人の流れも、あらゆる流れを変えて発展に繋げるとはすごいのぉ・・・。
- キジ
岡山城下町の作り方は実に戦略的で、当時最先端だったんだ。商人を呼び寄せて城下町で商業を活発に行ってもらえば、地代をたくさんもらえて大名の勢力が強くなる。そして商業を盛んに行うために、街道のルートを変えて物流も強化。商人も大名の保護のもとで安心して商売ができるし、町の人も商業地が活発なら安心して暮らせるからね。
ほかにも秀家は、現在の天瀬に武家屋敷町をつくるなど城下町を拡大・整備して、現在の岡山中心市街地の礎を築き上げました。そして、城下町は岡山城にちなんで「岡山」と呼ばれるようになったのです。
- キジ
こうして、「岡山」というまちが誕生したんだ!
- サル
もし、城が別の場所にあったら
「岡山県」「岡山市」は別の県名・市名だったんか…!
- イヌ
「岡山城下町」に「岡山県」「 岡山市」の由来があったとは驚きだワン!!!
- キジ
その後も岡山城下町は、さまざまな城主へ受け継がれて現在の形になっていったんだ。 ちなみに、岡山という名前の由来は諸説あるよ。
慶長6年(1601年)に小早川秀秋公(こばやかわ ひであき)が岡山城主へ
総延長約2.5Kmにも及ぶ外堀の最終工事をわずか20日で行った「廿日堀(はつかぼり)」の完成(現在の柳川筋)。さらに防衛強化のために寺町を形成しました。
慶長8年(1603年)の小早川秀秋公の死後、池田家が岡山藩主へ
池田忠雄(いけだ ただお)が藩主だった元和元年(1615年)〜寛永9年(1632年)には、田町あたりに武家地をつくり城下町を拡大。そして、外堀の西側を流れていた「西川」を整備します。岡山市街に現在も残る西川のことです。
こうして岡山城下町は、ほぼ完成形になりました。その後、池田光政の時代に城下町としての総仕上げが行われ、現在の岡山につながっているのです。
- キジ
いわば宇喜多親子から小早川秀秋、池田忠雄までは「ハード事業」中心の城下町づくり。いっぽう池田光政の時代は「ソフト事業」中心の城下町づくり。ソフト面を充実させたことこそが、光政の功績といえるんだ。だから今でも岡山市民のあいだでは、歴代の岡山藩主の中でとくに池田光政が英雄のように見られているんだよ。 池田光政の功績については「もっと深掘り!歴史秘話」を読んでみてね。
岡山城下町をともにつくり上げた女性たち
岡山城や城下町を築いた宇喜多直家・秀家親子、さらに城下町を発展させた池田光政。彼らとともに、現在の岡山の基盤をともにつくり上げた女性たちがいます。それが彼ら3人の妻たちです。
- キジ
はじめに紹介するのは、宇喜多直家の妻・おふく。宇喜多秀家の母でもあるよ! 円融院(えんゆういん)という名前でも知られているんだ。
※おふくに関する資料は少ないため、出自などについて詳しいことはわかりません。
宇喜多直家とは再婚で、最初は美作国高田城主(現 真庭市勝山)の三浦氏と結婚しました。しかし戦に敗れて三浦氏は自害。その後、亀山城(沼城)の城主だった直家と出会い、秀家を産んだといわれています。おふくは「岡山城の女城主」と呼ばれたとされ、直家の死後、幼い秀家を支え宇喜多家を盛り立てたという説もあります。
- サル
もし本当だったとしたら、宇喜多秀家の活躍は母親のおかげじゃな!
次に紹介するのは、宇喜多秀家の妻・豪姫(ごうひめ)です。
- キジ
豪姫は、江戸時代に「加賀百万石」と呼ばれた加賀藩(金沢藩)の基礎を築いたことで知られる前田利家(まえだ としいえ)の娘だよ。そして豊臣秀吉の養女でもあるんだ!。秀吉は豪姫をとてもかわいがっていたそうだよ。
豊臣秀吉の養子になるなど、秀吉から将来を期待されていた宇喜多秀家。秀吉がかわいがっていた養女で、実力派の武将・前田利家の娘だった豪姫を嫁にもらったことから、秀家は豊臣秀吉にとって、いかに特別な存在だったのかがわかります。
- イヌ
秀吉がかわいがっていた者同士の結婚だから、秀吉もうれしかったに違いないワン!
関ヶ原の合戦のあと、宇喜多秀家は八丈島へ島流しになり、豪姫は実家・前田家の治める金沢へ移りました。秀家は八丈島で結婚したり、親しい間柄になった女性がいたという記録がありません。また豪姫も、前田家を通して八丈島の秀家のもとへ仕送りを続けました。前田家の仕送りは幕末まで、代々おこなわれたといいます。
- サル
離ればなれになっても、秀家と豪姫の愛の絆は強かったんじゃろうなぁ。
最後に紹介するのは、池田光政の妻・勝姫(かつひめ)です。勝姫は本多忠刻と千姫の娘でした。そして池田光政と結婚し、光政が岡山藩主になったとき、いっしょに岡山へやってきました。
その後、岡山は大洪水に襲われましたが、勝姫は母・千姫に支援を申し込みます。そして千姫より、約4万両の援助がありました。現在の金額で約40億円にのぼるといいます。
- サル
勝姫が母親に支援をお願いしなかったら、光政は岡山の災害復興はできず、現在の岡山市は今とは違った風景になっていたかもしれんのぅ。
- キジ
夫たちとともに岡山城下を築いた女性たちのことも忘れないでね!
歴史ある「岡山城下町」の余韻を感じてみよう。
- キジ
岡山城下町ができるまでの歴史を知ってみてどうだった?宇喜多秀家、父・直家や池田家が最先端の城下町へと築きあげていった歴史の跡は今も、岡山市中心市街地に残っているよ。
- サル
わしもイケメン武将になりきって観光してみるわ!
天守台は四角形をした城が多いが、岡山城の天守台は全国で唯一の五角形である。天守台が四角形以外なのは、岡山城と安土城だけ(安土城は八角形)。