戦国史最大のミステリー、“本能寺の変”。当時、織田信長は日本の中心部分のほぼすべてを手中にしており、まさに“織田信長の天下統一待ったなし!”という状況でした。
しかし、天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前にした織田信長は、家臣の明智光秀(あけちみつひで)に京都・本能寺で討たれてしまったのです。そんな、歴史的大事件”本能寺の変”には、「岡山の武将が引き金になっていた!?」という説があります。
「備中高松城の水攻め」は、本能寺の変という歴史の大事件に関わりがある重大な出来事。そして歴史の大きなキーポイントでした。
「備中高松城の水攻め」キーパーソンとなる3人
- キジ
まずは、「備中高松城の水攻め」に関わることになる3人の重要人物を抑えておこう!
のちに天下を統一する織田信長の家臣。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)【織田軍】
日本の中心部を手中に納めた織田信長から中国地方への侵攻「中国攻め」を任されて指揮官に。「備中高松城の水攻め」は、秀吉率いる織田軍による中国攻めの中で起きました。
中国地方を統治する西国有数の大名。
毛利輝元(もうり てるもと)【毛利軍】
中国地方10か国を領有する西国有数の大名で、「三本の矢」の話で有名な毛利元就(もうり もとなり)の孫。「備中高松城の水攻め」で兵士を守るため和睦交渉を行うよう指示した毛利軍の大将。
忠義に厚く、勇猛果敢な武将。
清水宗治(しみず むねはる)【毛利軍】
今回のストーリーの主役であり、備中高松城主。周囲を湿地で囲まれた”沼城(ぬまじろ)”という「備中高松城」の地の利を活用することで、中堅どころの武将でありながら秀吉と善戦したが…。
- サル
「備中高松城の水攻め」は、中国攻めをしてきた織田軍と中国地方を統治していた毛利軍との戦いの中で起きた事件なんじゃな!
- イヌ
すごい武将がいっぱいで、ワクワクしてきたワン!!!
- キジ
ちなみに水攻めを考えたのは、軍師として知られる黒田官兵衛(くろだ かんべえ)だったという説もあるよ!
“本能寺の変”まであと5年。歴史が大きく動く「中国攻め」
天正5年(1577年)。天下統一まであと一歩の織田信長は、家臣の秀吉を指揮官に、毛利輝元が統治する中国地方への侵攻を開始しました。
- キジ
元々、毛利輝元は備前の宇喜多直家(うきた なおいえ)と手を結び、備中の三村氏を倒して備中国の大部分を手に入れていたんだ。しかし、天正7年(1579年)、直家は織田軍の凄まじい勢力を見て、織田軍に寝返ってしまったんだ。
- サル
宇喜多直家と言えば、岡山城下町を形成していく歴史上の重要人物じゃったのぉ。重要な局面でそんな強者に裏切られるとは…。
宇喜多氏の領有する備前国までが織田方の領地になってしまったことで、備中国の備前国境付近は、毛利軍と織田軍の戦いの最前線となりました。
毛利輝元は秀吉の侵攻に対抗するため、備中・備前国境付近にある7つの城を重要防衛ラインとして、軍備を強化。現在の岡山市西部から倉敷市北東部に至るエリアにあったこの7つの城は、「境目七城(さかいめ しちじょう)」と呼ばれました。そして境目七城の中で特に地理的に重要拠点だったのが、清水宗治が城主の備中高松城だったのです。
天下統一目前の織田軍が攻めてくる備中・備前の国境戦を前にして、清水宗治ら境目七城の城主は毛利軍の智将・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)によって三原城に集められます。
- キジ
このとき隆景は「織田方に着くなら今、申し出よ」と伝えたが、清水宗治は「一命を捨てて、城を守護致す。」と覚悟を示し、決戦に挑んだんだ。
- イヌ
厳しい戦いになることがわかってるのに、宗治の忠誠心はすごいワン・・・!
“本能寺の変”の3ヶ月前。事件の引き金が引かれはじめた…。
境目七城の北側は制圧され、南側は裏切りや退去により毛利軍が築いた防衛ラインは破壊されていきます。天正10年(1582年)3月、秀吉は織田方の軍勢2万と元・毛利軍だった宇喜多氏の軍勢1万を味方につけ、約3万人を率いて遂に備中国へと攻め入ります。
- キジ
あまりにも強大だった織田信長の軍勢。毛利軍は不利な状況が続き、宇喜多だけでなく、次々と寝返るものが現れて大混乱だったんだ。しまいには、毛利元就の娘婿である上原元将(うえはら もとすけ)までもが、寝返ってしまったんだ。
境目七城は勢力低下、遂に「備中高松城」が包囲される。
境目七城の北側は制圧され、南側は裏切りや退去により毛利軍が築いた防衛ラインは破壊されていきます。天正10年(1582年)5月上旬、秀吉は総勢2万の軍勢で遂に備中高松城を包囲したのです。清水宗治率いる備中高松城の軍には5千の兵がいました。
- サル
秀吉の2万の軍勢に対して、宗治側は5千の兵とは厳しそうじゃのぅ・・・。
しかし、毛利勢が圧倒的に不利な中、備中高松城主の清水宗治が孤軍奮闘! 予想外の活躍を見せたのです。備中高松城は、周囲を湿地で囲まれた「沼城」。沼地が天然の堀となって行く手を難み、鉄砲や騎馬先方といった力攻めでは容易に破れない難攻不落の城でした。
そのため、兵の数は少なくても、地の利を生かして戦うことで織田軍は苦戦し、戦いは長期化。まさに泥沼の戦況になりました。
- キジ
それまで秀吉は、意気揚々と戦を勝ち進めてきたんだ。それが、清水宗治という思わぬ伏兵に苦戦を強いられたんだよ。秀吉にとって、完全に想定外だったんじゃないかな。
- イヌ
忠誠を有言実行してて、かっこいいワン・・・!
そこで秀吉は宗治に、「降伏すれば備中一国を領土として与える」と織田軍への寝返りを提案しますが、宗治は断固拒否。こうなると、秀吉としても備中高松城を攻めざるを得ません。
こうした状況下で、秀吉は信長に援軍を依頼。信長は明智光秀に援軍を指示、同時に秀吉には一刻も早く備中高松城を攻略するように命じたのです。また信長自身も、本能寺で休息したあと、備中へ向け出陣の予定でした。
- キジ
まさか、備中高松城の援軍として送られた明智光秀が、数日後に本能寺の変という”さらなる想定外”の行動に出るとはね・・・!
- サル
清水宗治の想定外の活躍が、歴史的事件の引き金を引いていたんじゃな・・・!
難攻不落の「沼城」が水没。天下の奇策、水攻め。
信長から一刻も早く備中高松城を攻略するよう言われた秀吉は”天下の奇策”を思いつきます。秀吉の軍勢を苦しめた「備中高松城」は雨水が溜まりやすく、周辺は湿地帯で囲まれているため、天然の要害として城を守ることができました。しかし、過去には何度か水害にも見舞われた土地だったのです。
- キジ
秀吉は、苦戦していた備中高松城の地の利を逆手にとった奇策、水攻めを思いついたんだ。なんとも大胆な策だけど、備中高松城の三方を囲うように堤防を築き上げ、そこにすぐ近くを流れる足守川の水を引き入れるように準備を進めたんだ。
- イヌ
すごいけど、めちゃくちゃ時間がかかってしまいそうだワン・・・!
堤防は全長約3kmにもおよびます。重機もなく、手作業で一から作るには相当な時間と人力が必要でした。
そこで秀吉は、備中高松城のそばにあった「自然堤防」を活用します。自然堤防とは、川が運んだ土砂が川の縁に積もって、堤防のように高くなった土地のこと。自然堤防の斜面に、土俵(俵の中に土を詰めたもの)を何個も積みあげて堤防にしたのです。
- キジ
備中高松城の東にある山からは、大量の土が採取された跡が確認されているんだ。また、梅雨の時期で足守川が増水していたことも計算していたといわれているよ。
秀吉はさらに、最短で完成させるために地元の村民にも工事へ参加させました。「土俵1俵につき、銭100文、米1升」という破格の報酬を出したため、近隣の村民が殺到。元々、一ヶ月はかかると想定されていた堤防は、わずか12日で完成したのです!
- キジ
秀吉は、水害の多かった尾張の濃尾平野出身。堤防づくりのノウハウを持っていたんだろうね。
- サル
わしもそれだけ報酬がもらえるんなら、猿山の仲間集めて総出で行くわ!
そして、足守川の水が堤防内に流れ出し、備中高松城は少しずつ浸水していったのです・・・。
状況が急変?遂に、あの“大事件”が発生!
秀吉の水攻めにより、備中高松城周辺は湖のようになり、城内まで浸水してしまいます。毛利輝元と家臣の吉川元春(きっかわ もとはる)・小早川隆景が、備中高松城付近まで駆けつけましたが、到着したときにはすでに城は水に浮かぶ孤島となっており、助けようのない状況。一方で、清水宗治も秀吉からの降伏の勧めに応じることなく、粘り強く籠城を続けていました。
- イヌ
僕が犬かきで助けに行ってあげたいワン・・・!
- キジ
そんな中、秀吉は毛利輝元の領地から中国5か国(備中、備後、美作、伯耆、出雲)の割譲と宗治の切腹を引き換えに、兵士たちの命を助けるという条件で和睦を持ちかけたんだ。でも輝元は、領地割譲は認めましたが、宗治の切腹は拒否したんだ。
しかし秀吉は、「清水宗治の切腹は絶対条件だ」と頑なにこだわりました。中国攻めの指揮官を託された以上、敵将の首は勝利の証として絶対必要な条件だったのです。
そんな水攻めの最中となる6月2日。まさかの大事件が起きました。
京都・本能寺で、明智光秀の裏切りにより織田信長が命を落としたのです。
- サル
援軍として来るはずだった明智光秀の裏切りは誰も予想できんかった。戦国期最大の事件ともいえる「本能寺の変」が起きてしまったんじゃのぉ・・・。
翌6月3日の夜には秀吉のもとに使者が到着し、信長の死が知らされました。秀吉は弔い合戦で明智光秀を討つべく、毛利輝元との和睦を急ぎます。また信長の死は、毛利側に知られないようにしました。和睦を迅速に進めるためです。
- キジ
秀吉の表向きの大義名分は、主君の仇討ちのため。だけど裏の本心は、誰よりも早く明智光秀を討てば、自分が一番になれるという戦国武将としての野心もあったんじゃないかな。
主君の安泰と城の兵士達のための切腹。美しき宗治の最期。
和睦交渉は、平行線。秀吉は、信長の敵討ちを優先するため、毛利輝元に対して「3日以内に和睦を結べば、領土割譲は3か国(備中・美作・伯耆)に譲歩し、兵士たちも助ける。ただし、清水宗治の首を差し出せ」と言い渡しました。
- キジ
自らの首が和睦交渉の条件だと聞いた清水宗治は、「自分の命により主君を安泰にし、部下の命を助けることができるのならば、自らの首など安いものだ」と述べ、切腹を決意したんだ。
切腹前夜、清水宗治は小姓(こしょう=雑用担当の家臣)に髭(ひげ)を抜かせて、身だしなみを整えていました。自分の首を織田信長が検分するだろうと予想し、髭を生やしていては礼を失すると、最後まで武士としての誇りにこだわったそうです。
そして6月4日昼に宗治は秀吉から送られた酒や肴で別れの宴を行いました。その後、宗治は白装束を纏い、自らの城を取り囲む水の上へと小舟を出し、船上で能の「誓願寺」の舞を踊り、辞世の句を残し、切腹をしました。
〜清水宗治の辞世の句〜
“浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔(こけ)に残して”
- サル
最期まで忠誠心を持って、兵士達を想いやる生き様を感じるのぉ・・・。
- キジ
先を急ぐ秀吉に「見届けるまでは動かん」とまで言わしめた清水宗治の最期は、とても美しかったそうだよ。そして、切腹を見届けた秀吉は宗治に対して「戦国武将の鑑」と称賛したんだ。
秀吉にとっては、元々眼中にすらなかった備中高松城の城主・清水宗治。しかし強敵・秀吉を相手に想定外の善戦をし、武士の最期として美しい生き様を見せられ、天才秀吉もただただ称賛するしかなかったのでしょう。
また、清水宗治は息子の源三郎(清水景治)を三原城に人質として預けていました。人質とは、同盟者が裏切らないために主君に大切な家族を預けるのです。そんな大切な息子へ切腹前夜に遺言を残しています。
“身持ちの事
恩を知り 慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し 天に任せよ
朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつゝしめ
談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな ”
――六月三日 宗治
当時、まだ10歳前後だった息子に残した、たった三行の遺言。この遺言書を源三郎は肌身はなさず持ち、亡くなったときもお守り袋の中から出てきたという話が残っています。
「備中高松城の水攻め」は歴史上大きな分岐点だった。
備中高松城の援軍で来るはずだった明智光秀が、「敵は本能寺にあり!」と裏切ったことで起きた本能寺の変。そして、状況が一変し、秀吉と輝元の和睦が成立して秀吉による中国攻めは終結。宗治の切腹により、約5000人の城兵の命が救われました。
宗治の最期を見届けた秀吉の軍勢は、明智光秀を討つためにすぐさま京へ向かいます。中国地方から京都までおよそ230kmの距離を、わずか10日程度で到着。驚異的なスピードで戻ったことから「中国大返し」と呼ばれました。その後の秀吉は、明智光秀を討伐して天下統一を実現していったのです。
- キジ
備中高松城の水攻めの最中に起きた歴史的大事件、”本能寺の変”。もし清水宗治が早々に負けたり、裏切ったりしたら、戦は長引かなかったはず。そうなると信長は、明智光秀を備中に向かわせなかっただろうし、光秀は信長を討つチャンスがなかったかもしれないね。
- サル
清水宗治の活躍がなかったら、本能寺の変は起きなかったかもしれんのぉ・・・!
- イヌ
宗治の忠誠心溢れる想いが、歴史を変えたんだワン!
秀吉は備中高松城を水攻めする堤防を、なんと12日間で完成させたといわれています。自然堤防という地形を活用したり、当時としては破格の報酬を与えることで、多くの現地住民を工事に参加させたりといったアイデアで、短期間で堤防を完成させたのです。